仮想現実の空間性について、あるいは場所がそこにあること

 ヴァーチャルSNSに飛び込んで、散歩したり、人と話したりしているうちにあっという間に1ヶ月が経過した。今では友達もできて、どっぷりその世界に浸ってしまっている。そういった仮想現実内で考えたことについて、普段口にする機会はないからここにまとめておこうかと思う。

 ぼくは社会人になってから関東に出てきた人間だけれど、関東でできた友達は一人もいない。子どもの頃は近所に住んでいたり、同じ幼稚園に通っていたら自動的に友達だったのに、今はもっとよそよそしくしか友達が作れなくなった。

 一応人間関係そのものは持っている。でも、それを友達と呼ぶかどうかはあやしい。例えば、会社に所属しているものの同期は同期だし、先輩は先輩であって、何かを話しても、そういった仕事上の関係からはどうしても外れることができない。仲が悪いわけではないけれど、利害関係に絡め取られていると、どうしても純粋に友達だと断言できない。だからと言って、利害関係のない会社外に別の人間関係ができるのかと言われたら、当然そんなことはない。なにもしないで生活していると、友人を増やすコンセンサスみたいなものがほんとうにない。

 それに対し少なからず危機感は覚えていたのだけれど、いざヴァーチャルSNSに入ってみるとすぐに友達ができて、なんだか夢を見ているような気持ちになる。関東で過ごした数年が全くの嘘みたいに思える。すべてはヘッドセットの中に住んでいる小さな妖精に騙されているだけで、できたと信じた友達は実際にはどこにも存在しておらず、ぼくはアパートの中で一人、奇妙に笑ったり、喋ったりしているだけなのかもしれない。そんなことを考えるたび、とても陳腐な映画の設定みたいだと思う。

 もちろんヴァーチャルSNS上に存在する他人は、ぼくと同じように現実の肉体を持ち、ご飯を食べたり、仕事をしたり、部屋の掃除をしたりしている。そしてぼくとは異なる関心を持っていて、ぼくの理解できることを話すこともあれば、まったく分からないことを話すこともある。とても普通のことだ。とても普通に他人は他人として存在しており、だからそれは、紛れもない現実的な人間関係であって、「夢」みたいな空想的なものごとではない。

 一般的に「VR」「仮想現実」と聞くと、現実逃避的で、ファンタジーな世界に飛んでいくためのツールだと思われているし、ぼくもそう思っていたけれど、少なからずヴァーチャルSNSは全く異なるものだとわかった。人間の持っている現実か現実逃避かの境目はおそらく、外部から与えられる情報の予測可能性にあって、例えばバーチャルSNS上に存在する他人が、あらかじめ話すことを決められたAIのような存在であれば、それは現実逃避的なのだと思う。

 例えば、2000年代、10年代前半あたりには「キャラ」という言葉がよく使われており、「お前はウザキャラだよな」「お前はツンデレキャラだよな」という風に、人をある特徴を軸として解釈する風潮が強かった。これはたぶんアニメなどから導入されたのだと思う。当時のアニメキャラの作り方はそういった「どういう特徴を持ってるのか?」が重視されていたように思う。今、ハルヒなんかを観ていると、異常に躁的だと思うのだけど、強いキャラ付けを重視した結果だと思う。それは物語が重視される最近のアニメと比較すると、キャラクターの発言の予測可能性が高く、異化されることがない。だから、相対的に現実逃避的だったかも知れないと思う。

 ただし、アニメキャラではなく、そこにいるのが現実の人間である以上は、何をするのか、何を言うのかは全く予想がつかない。どれだけ気をつけても相手を怒らせてしまうことがあるかもしれないし、逆に自分が怒ってしまうことがあるかもしれない。そういうふうにして常に予想外の事故が侵入してくる予感が存在し続ける。爆弾を囲みながら会話しているようなものだ。そうやって他者が暴力的なまでに存在してしまう空間は、ヴァーチャルSNSとはいえ一般的にイメージされるものよりはかなり現実的だと思う。

(作家の伊藤計劃はブログ記事「制御された現実とは何か - 伊藤計劃記録 はてな版」の中でMGS2の考察をしているが、そこでは人工物に囲まれて、すべての情報が集積され、予測され、制御されている社会は十分に仮想現実的だ、ということを書いている。それはもちろんMGS2というゲームの設定を土台にした上での話だけれど、実際にぼくたちは自分の関心ごとがyoutubeのおすすめの動画としてレコメンドされる社会に生きているし、 AIによって表示された広告によって購買行動、さらには投票行動さえ操作され得る現実を生きていて、それは十分仮想現実的だと思う。そういう意味ではVR的な意味での仮想現実も仮想現実だし、現実とVR的な仮想現実の境界はどこにあるのだろう?)

 とはいえ、ぼくがヴァーチャルSNSをやって「夢を見ているみたいな気持ち」になったのは、そういった電子的な現実感に対してではなく、現実からは消えてしまったはずの密なコミュニケーションのための回路がヴァーチャルSNS上だと、信じられないくらいに機能しているように見えたから、だ。そして、ぼくがヴァーチャルSNSを始めたのは、友達が欲しかった、というような自分の欲求ももちろんあるけれど、そういった仮想空間の特殊性についてもう少し考えてみたかったから、というのもある。

 

 密なコミュニケーションを生み出す要素の一つは、共同体が存在できる土壌があること、だと思っているけれど、ぼくが生まれたときにはそういった土壌は社会にほとんど残っていなかった。生まれる50年近く前には家制度は廃止されてしまっていたし、ドラえもんにおいてのび太たちが集まるような空き地もほとんどなくなっていて、公園で小学生や中学生と話す謎のおじさんの存在もすっかり肩身が狭くなっていた。
 アパートの隣の部屋には、ベランダにぼくの部屋の側まで飛び出すくらい大量の植木を置いているおじいさんが一人で暮らしている。でも、その人との連帯感のようなものは全くないし、廊下ですれ違うたびになんだ気まずい雰囲気に背中を押されて少しだけ会釈をする程度の関係でしかない。
 だからと言って、SNSに目を向けてみても、そこにあるのは共感可能性によるコミュニケーションばかりで、密なコミュニケーションとは呼べないと、個人的には思っている。ぼくはSNSについて考えるたび、テクスチャの剥がれ落ちた真っ白い砂浜を想像する。そこにはたまに言葉が流れついてぼくはそれを読むことができる。そしてぼくの価値観にしたがってそれが良いものか悪いものか、面白いのか、悲しいのかを判断する。でもそこにあるのはぼくと言葉だけでしかなく、誰もいない。みんな一人だから、それに耐えられなくなって、何かに共感したいと思う。共感することで、自分と同じと思い、寂しさを紛らわしている。そういうことを思う。

 この現実空間で失ってしまった共同体性について、SNS上に存在しない共同体性について考えていたのだけれど、その要因として思い浮かんだ一つは「場所性」ということだった。場所と共同体という考え方は一見何も関連がなさそうだけれど、部活をするなら部室が必要となるように共同体と場所は密接な関係を持っているのではないか?

 マルク・オジェ「非‐場所―スーパーモダニティの人類学に向けて」という本の中において、人類学的な見解から場所とは三つの側面があると説明される。それは「アイデンティの場」「関係の場」「歴史の場」という考え方だ。長くなるので具体的なことは書かないけれど、それぞれ場所はアイデンティティを保証し、人間の関係性が存在し、歴史が存在するという性質がある、みたいなことを書いている。それに対し、グローバル化した結果生み出された現代の「非場所」という概念が対置される。

場所とは、アイデンティティを構築し、関係を結び、歴史をそなえるものであると定義できるならば、アイデンティティを構築するとも、関係を結ぶとも、歴史をそなえるとも定義することのできない空間が、非―場所ということになるだろう。ここで主張する仮説は、スーパーモダニティが数々の非―場所をうむということだ。非―場所、すなわちそれ自体は人類学の場ではなく、ボードレール的な近代性に反して、古代の場を含まない。収集され分類され、「記憶の場」に格上げされ、近代性のなかで、一線を画した特別な位置を占める古代の場を取り込まない空間なのだ。人が診療所で生まれ、病院で死ぬ世界。贅沢な、あるいは非人間的な環境の中継地点や一時的な居住場所(ホテルチェーンと不法占拠された建物、リゾートクラブ、難民キャンプ、あるいはいまにも壊れそうで、朽ちながらも永続する運命にあるスラム街)が増える世界。居住スペースでもある交通手段の密なネットワークが発達する世界。大型スーパー、自動販売機、クレジットカードの常連が、無言の身振り手振りの商行為と通じ合う世界。こうした孤独な個人主義や、通りすがりの一時的なものや、はかないものを約束された世界は、他の学問と同様に、人類学にも新しい対象を提供する。

マルク・オジェ「非-場所 スーパーモダニティの人類学に向けて」

 田舎の田畑の真ん中にどでんと存在するイオン、商店街の近くにできたマクドナルド、温泉街にできた真っ白いホテル、そういったものは、昔ながらの歴史は持たないし、関係性も生まれなければ、個人のアイデンティティを保証することもない。でも、ぼくたちはそういった「非―場所」に取り囲まれて生きている。

 「非―場所」においては個人はアイデンティティを備えた人間というよりも、IDなどによって画一化された一過性のアイデンティティにより個人を特定されるため、相対的に匿名性を持っていて解放的らしい。旅客を例に出して次のように書いている。

いっときの間、身分にふさわしくふるまう必要もなく、地位に合わせてふるまう必要もなく、見た目に気をつける必要もない。デューティーフリーである。個人のアイデンティティ(パスポートあるいは身分証明書)が登録されるやいなや、搭乗前の乗客は、客自身も荷物の重量と日常の重圧から解放されて、「税から解放された」空間に殺到する。安価で安い買い物をするためというよりも、もしかしたら、この瞬間に自由であるという現実を、これから出発する乗客という否定し得ない身分を感じるためかもしれない。

マルク・オジェ「非-場所 スーパーモダニティの人類学に向けて」

 無理矢理話をこじつけるならSNSは「非―場所」の究極系というふうにも感じられる。そこではぼくたちは画一化されたアカウントとしてだけ存在することができ、現実に足が早かったり、顔が良かったり、話が下手だったりすることとは全く無関係だ。完全な匿名性を持っていて、それは現実の「非―場所」が持っている匿名性の比にはならない。そして空間的な広がりもない。

 オジェはこの「非―場所」をかなり肯定的に捉えているし、ぼくもその良し悪しの判断をするつもりはない。ただ、この「非―場所」的なものの台頭が、現実空間における場所性を損ねていったのではないかと考えている。

 

 ヴァーチャルSNSについて話を戻すと、その画期的な部分は当たり前だけれど、インターネット上に空間性を導入したことだと思う。それによって、ぼくたちは同じ空間を共有することが可能になった。例えば、コロナ禍の zoom 飲み会では、確かに楽しく飲むことはできたが、会話は一つの窓を通しているだけに過ぎなくて、飲み会の中で同時多発的にあちこちで会話が展開されるということはなかった。本来飲み会は、中心で騒いでいる人がいたら、端っこの方で二、三人で静かに話しているグループがいくつかある、みたいに出鱈目でよく分からないものだし、それがなかったからzoom飲み会は今ではそこまで流行ってないのだと思う。

 しかし、ヴァーチャルSNS上の飲み会はそういった複雑な会話がほとんど現実と同じレベルで可能だ。制限があるとすれば、触覚と嗅覚と味覚が使えず、表情がかなり単純化されている程度でしかない。それはある意味では大きな違いだが、zoomと比べるなら、だいぶマシになっていると感じる。加えて、ヴァーチャルSNSでは、移動の手間がかからないというメリットもあり、現実の飲み会と同じくらいには流行りそうだと思う。実際に飲み会をするグループのようなものは多く存在している。飲み屋街もある。そして多くの人がいる(VRChatの話です)。

 ヴァーチャルSNSには、人との密なコミュニケーションが発生していて、空間の広がりがある。だから、場所性があるのか? と問われたら、それはよくわからない。さっきの、アイデンティティ、関係、歴史、の三つの要素を出すなら、まず歴史は存在していないから。そこにはただ広場の、あるいはカフェの、あるいは電車の、ような形をした世界が存在するだけであって、そこにどういった歴史的な重みがあるのかはわからない。ヴァーチャルSNSには、チュートリアルのための、イベントのための、といったある目的のためのワールドが存在しているだけで、それらは現実の空間みたいに地続きなのではなく、並行世界のように島宇宙的に存在する。
 アイデンティティ、関係、歴史はそれぞれ独立しているのではなく、それぞれ関係を持っているはずだから、歴史がない場所にどうやって関係とアイデンティティを作っているのだろう。

 ぼくは、そういうことに興味がある。現時点で思いつく陳腐な結論の一つは、小さなSNSが持ってしまう共同体意識のようなものがあるということだろう。ヴァーチャルSNSをやっている人間はマイノリティのはずで、そういったマイノリティは連帯感を持ってしまう。例えば、youtubeを見る人に名前がないけれど、ニコニコ動画を見る人にはニコ厨というアイデンティティがあり、連帯感があるように。

 でも、それはとてもつまらない結論だと思う。なぜならヴァーチャルSNSをしているの人間がマイノリティである今しか通用しないことだからだ。それよりもう少し普遍的なことに興味がある。この先、Xの人口くらい人が増えたらどうなるだろう。あるいは、増えないまま衰退するだろうか。ヴァーチャルSNSにおけるワールドは、イベントなどを積み重ねることで歴史を持つことがあるだろうか。今の密なコミュニケーションは今後も持続するのだろうか。持続するのだとしたら、それは何が要因なのだろうか。